その後の折々の語らいのなかで、彼が石頭教育隊の第五中隊の出身であり、
掖(えき)河戦線、第五軍司令部前で編成された独立戦車隊の要員として出撃、
怒涛のごとく押し寄せるソ連機甲部隊の前に立ちはだかり奇しくも生き残った一人であることを知った。
作業はラザレート(病院。ここでは「馬の病院」の意)勤務である。
彼はソ連側に信頼の厚い獣医であった。
私には、彼が治療する馬の鼻を締め上げたり、浣腸(かんちょう)用の芒硝液入りの容器を高く捧げたり、馬屋掃除、馬糧の給与、馬運動等々の仕事が割り当てられた。
ドクトルの須藤とサニタール(衛生兵)の竹下とのコンビができあがり、明るく楽しいムードが醸(かも)し出されていった。
彼の高度の技術と熱心な治療とはこの地方でも有名である。
近辺(きんぺん)の作業隊の馬はもちろんのこと、民間人の山羊、羊、犬猫までがマダムや子どもたちに連れられて診療を受けに来る。
また、これら動物に注ぐ彼の愛情にはまったく感心するほかなかった。
これに反し、私は駄目である。
馬などには生まれてこのかたさわったこともない。
珍しくもあるが、恐ろしさが先にたつ。
とても愛情などというものはわきっこない。
疝痛(せんつう:激しい腹痛)馬や骨折馬などが来ると、治療するよりも死んでくれるように心が動く。
癖の悪い馬(とくに支那馬)には蹴(け)られる。咬(か)まれる。
おとなしい馬にはなめられたうえ逃げられる。
馴れるまで当分のあいだは毎日、失敗の連続である。
さもあろう。
さして多くもない資料「燕麦」をピンハネして夜食用の粉作りに精を出したり、病馬が全快するよりも、死んでくれて肉となることを願うような私に、彼らが好意を持つはずはあるまい。
乗馬も習った。
須藤ドクトルの颯爽(さっそう)たる馬上姿に憧(あこが)れていたからである。
ある日のこと、病馬廠長の乗馬を内緒で引き出して秋暮れのテルマ河畔の疾走を試みた。
長身であり、目もとが涼やかで、どことなく気品を備えた彼は、
ボロ服をまとった新入りの私にたいし、驚くほどのこまやかさで体の調子などを尋ねた。
「そこは310収容所よりも大きな収容所で、高さ2メートルくらいの頑丈な柵(さく)で囲われ、四隅に望楼(ぼうろう)が立ち、その望楼には、四六時中マンドリン(自動小銃)を下げたカンボーイが立っていた。
彼らも、独ソ戦でドイツの捕虜になった経験をもっているということだったが、ほとんど少年兵のように若く、夜になると、故里(ふるさと)を思って感傷にふけるのか、望楼の上で歌を歌っていることがよくあった。
(略)
ある日、昼食が終わってひと休みしていると、ソ連のカンボーイたち三人ばかりが一台の自転車を中にして、乗る練習をしている。
三人とも自転車に乗れないらしい。
自転車をひっくりかえしては大騒ぎしているので、われわれ日本人30人ほどがつぎつぎ自転車に乗って見せた。
なかには乗りながら逆立ちする者や手放しで乗る者などがいたので、カンボーイたちはすっかり驚いてしまって、
「ハラショー(素晴らしい)!ハラショー!ハラショー!オーチン・ハラショー!」
を繰り返していたが、こんな器用な日本人ばかりいるのに、なぜ、ソ連に戦争で敗けたのかと真顔になって尋ねてきた。
そこで
「おまえたちにに敗けたのではない。アメリカに敗けたのだ。おまえたちは火事場泥棒だ!」
といってやったところ、彼らには言葉が通じなかったのか、それとも言う意味が通じなかったのか、みんなポカンとしていた。
せいぜい十五、六歳だろうか、こんなに若くて戦争に駆り出された彼らである。
まったく無邪気なものであった。」
引用:「捕虜体験記4 (矢島張一氏回想 P346〜350) ハバロスク地方篇 編集・発行 ソ連における日本人捕虜の生活体験を記録する会」